黒茶屋とイルミリオン―3
こうして、みな、満足の内に食事が終わる頃には、外が暮れてきた。 モミジのライトアップが始まるころには、雨も止んで来た! そう、これからイルミネーションの観賞に出掛けるのだ。
全員が逐次トイレを済ませ、スリッパを履いて階段を降りた。 折角のこの「黒茶屋ブランド」の中で、このスリッパが画竜点睛を欠いていた。 どこかの温泉宿にあるような、安っぽい、ペラペラのビニールなのである。 いや、形状や材質の問題ではない。 歩き難いのだ。 歩く度に踵がパタパタと・・ いっそ、私は脱いだほうが安全かと思われた。
階段は勾配もゆるく、広い。 唯、それだけに両側に手摺りがあると、一層安全だ。
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さて、入り口脇の帳場で会計を済ませたが、応対した男性がクレジットカードの操作に慣れていないのか、別の男性に交代したりして、支払いに結構時間が掛かってしまった。 払い終わると、玄関には靴が用意してあった。 そして靴を履こうとしたら、私が杖を使っているのを見ていた和服姿の女性が寄って来て、私の目前で屈み、
「あのぉ、 あちらでも、履けますが?」
と、自らの左後方を見た。 そこには、壁際に摑まる所があった。 しかしこの広い玄関で、そこまで行くのも大変だ。 私は
「いや、ここで大丈夫です」
と言ってみた。 まぁ、イザとなれば、この段差に腰掛ければ良い。 すると、その女性は、少し腰を浮かせ、振り返って店舗備え付けの杖を出して来た。 その杖は下が四足になっていて、自立していた。
この四足の杖は、総合病院のリハビリ室で見た事はあったが、使うのは初めてである。 それは思いの外安定が良く、私は楽に靴まで足を運べた。 すると今度は、彼女は靴べらを出して来た。 私の目前で屈み、右手で四足杖を支えながら、彼女はサッと自然な身のこなしで出すのである。
そのホスピタリティーに私のみならず、隣にいた妻も感激し、
「まぁ、至れり尽くせり・・ 本当に有難うございます」
と、礼を言った。 するとその女性は、こう言ったのである。
「いぇ、こちらこそ、(雨の中)この石段を登って来て頂いて、有難うございます。」
これって、「深イイ話」・・ 否、「深イイ体験」である。
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妻と私は彼女に会釈し、暖簾をくぐって出た。 この時もう雨は止んでいて、傘なしで石段を降りる事ができた。 イルミネーションは屋外の施設なので、楽しむために天候は重要な要素である。
きっとあの女性は暖簾の陰から私達の行く末を見守ってくれていた事だろう。 しかし私は会計で遅くなったので急いで皆に合流し、振り返るのを忘れてしまった。
唯、それだけが、未だに心残りである。